チョムスキーとピンカー

チョムスキー(Noam Chomsky)とピンカー(Steven Pinker)という変形生成文法の学者がいて、本を何冊か買って好きなのですが、いろいろ批判されている。

批判の中のひとつが、彼らが言語は「人」しかしゃべらない、と主張していることがあります。
動物学としては、他の霊長類もしゃべるし、イルカや鳥もしゃべる。特にチンパンジーなど霊長類の言語能力は主語、述語の結びつきもあったりして人間の言語と基本的に区別がつかない。滅びてしまったネアンデルタール人等々まで範囲に入れれば、現生人類以外に高度な言語を持った生物がいなかったわけがない。ということでチョムスキーやピンカーはバカみたいですが、彼らの本が好きで読んでいる身としては、変形生成文法派が主張していることはそういうことではなくて、表層としての言語(音だったり、意味だったりする)は頭の中に言語に対応する神経の構造があって成立している、ということを言いたいのだと思う。言語をどう定義するかによるのですが、いわゆる言語学、日本語とか英語とかを研究する対象としての言語学は、現れた形だけを研究するのではなく、その現れた形が脳の仕組みとどう絡み合っているかを研究しないと完全な理解に至らないというようなことを言いたいのだと思うし、その範囲で正しいと思う。


オッペンハイマーの「人類の足跡10万年全史」はネアンデルタール人が現生人類より大きな頭脳を持っていたことからたぶん言語を持っていたに違いないという話の前後で、チョムスキーやピンカーに言及して鋭く批判しています。わたしとしては、脳の発達と言語の習得は大きな関係があると思うので、ネアンデルタール人が大きな脳を持っていたのなら言語も持っていただろう、というのは賛成。ただその言語は調べようもないし、ひょっとしたらたぶん現生人類の言語とは相当違うものかもしれない。現在残っているのが現生人類だけなのだから、それを調べるしかない、という意味でチョムスキーやピンカーも正しいと思う。


私は言語オタクを自称している者ですが、言語を軽く表層的に考えがちな世の中や人間の習性を考えると、チョムスキー、ピンカーの主張は主張し続けないとつい忘れてしまう重要なポイントだと思う。


追記:中国語と日本語と英語はすごく違うけど、言語と言う意味ではとても似ている。習い始めには時制についてなど本質的に違うような気がするけれど、時制とかについてならば、翻訳は完全に可能。翻訳して意味が不明になることはない。それよりも言語を通じて表されている広大な意味世界は文化ともからみ翻訳不能な部分はあるが、それも必要な限り説明を加えてよいのならば伝達可能。
この辺はどんな言語についても同じだと思う。