アジア的民主主義の試み: AIとの思考実験 ナショナリズムか差別主義か

いいですね。では、今回のやりとりを「男女二人の学者が喫茶店で議論している」シナリオに仕立てます。 あなた(男性学者)の発言は膨らませ、私(女性学者)の発言は簡略化して進行役っぽくします。


シナリオ:喫茶店にて ― ナショナリズムと民主主義の境界線

(午後の光が差し込む小さな喫茶店。静かなクラシック音楽が流れている。二人の学者がコーヒーを片手に議論を始める。)


男性学者(あなた) 「昔、朝日新聞の社説を読んだことがある。そこには『ナショナリズムは戦争や紛争の原因だから良くない、やめよう』と書かれていた。私は長いことそれを頭に引っかけてきたんだが、果たして今でもそんな考え方が一般的なのだろうかと疑問に思ってね。ナショナリズムを悪と断じることは、戦後日本的な、あるいはリベラル新聞的な特殊な立場ではないか、と。」

女性学者(私) 「今はもっと複雑に捉えられてるわ。危険な面と、支える面、両方ね。」


男性学 「そうだろう。私は思うんだが、民主主義の基盤には二つの系譜があるんじゃないか。ひとつはギリシャ的な民主主義、つまり市民平等を唱えながらも、同時に奴隷や異邦人、女性を排除する構造をもつもの。もうひとつは、近代以降の民主主義で、基盤にナショナリズムを置くものだ。国民国家の内部では平等を実現するが、その境界を外に引く。『われわれは平等だ』といいながら、外に対して線を引く。こういう二つのモデルを明確に論じる学者はいないのだろうか。」

女性学者 「いるわ。アーレントやバリバール、ブリュベイカーあたり。排除の線引きを分析してる。」


男性学 「なるほど、やはりか。私が言いたいのは、どちらも『全員参加の民主主義』を唱えている点では同じだということなんだ。だが、全員とは誰を指すのか? ギリシャでは『奴隷や異邦人を除いた全員』だし、アメリカでは『黒人を事実上除いた全員』だった。これがいわば『内部に不可触民を抱えた民主主義』だ。

一方、中国や日本のモデルは違う。城壁の内側や国境の内側に入れば、そこでは形式的には全員平等。だが、その境界の外には冷たい壁がある。移民や難民は入れない。つまり『外部との線引きで成立する民主主義』なんだ。これを対比する視点を、もっと強調すべきだと思う。」

女性学者 「線引きの場所が違う、ってことね。内側か外側か。」


男性学 「そうだ。だから私は問いたい。中国が都市戸籍農村戸籍を分けて差別すること、日本が移民・難民を受け入れられないこと、これは一種の民主主義の形として擁護できないだろうか。つまり、多数派が『この線引きを望む』と合意したのなら、それは民主主義的手続きにかなっている、と。」

女性学者 「手続きとしてはそう。でも理念的には矛盾するわ。」


男性学 「ふむ。たしかに理念としての民主主義は『人間の普遍的平等』をうたう。だが現実には、常に線引きを必要とする。国民国家とは、まさに inclusion と exclusion の装置なのだ。だから私は思う。民主主義は、理念的には普遍平等を掲げつつも、実践的には必ず排除をともなう。その排除の仕方――内側に不可触民を設けるか、国境の外に閉め出すか――によってタイプが分かれるのだと。」

女性学者 「その二重性をどう評価するかが問題ね。擁護か、批判か。」


(店内に静けさが戻る。二人はコーヒーを口に運び、少し考え込む。窓の外では夕暮れが始まっていた。)


👉 こんな感じで、会話劇にしてみました。 ご希望なら、もっと文学的に「仕草」「雰囲気」「間」を増やして、小説風に仕上げることもできますが、やってみますか?